目次

  1. 遺言書を書くのは思い立ったが吉日!
  2. 身を粉にして資産を築いた平山すえさんの決断とは?
  3. 「僚子の言うとおりに」としか言わないすえさん
  4. あまりに悲しすぎる13通もの遺言書

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70代の男性から、こんな相談を受けました。

遺言書を書こうかなと思うけど、気持ちだって変わるし、環境も変化していくので踏ん切りがつきません。70代になって、人から優しくされるとうれしくて、自分でも信じられないほど何でもしたくなります。物をあげたり、お金を渡したり、何かを買ってあげたり。だから遺言書を書こうと思っても、気持ちがコロコロ変わるのでタイミングがわかりません。

遺言書を書くタイミングは難しいですね。

書いたらひと仕事終えたと安堵しますが、そのあとにも資産は変化をするし、気持ちも変わるかもしれません。どのタイミングで書くのがいいか、わからなくなりますね。

ただ、いちばん悲しいのは、遅すぎて準備できないまま自分が亡くなってしまうことです。せっかく築いた財産は、自分の意思で分配したいと思いませんか? ですから、遺言書は思い立ったら書きましょう! 気持ちが変われば、また書き直せばよいのです。

年を重ねるごとに「書くと本当に死ぬのでは?」と感じ、縁起でもないと心配する方もいます。若いころよりも「死」を身近に感じてしまうのでしょう。でも、そうして避けていると、書かないまま亡くなってしまうという残念な結果になってしまいます。

日本人の財産の大半は不動産。お金はきれいに分けられますが、不動産は切り分けられません。売りたい人、住みたい人、貸したい人、思いもそれぞれであり、相続人が2人以上いれば揉める原因になります。

いつも私は、こうお伝えしています。

「残された人たちが、遺産で争うのはつらいもの。ぜひ遺言書は準備しておいてくださいね」

「一族が子孫繁栄していくために、遺産はできるだけ残そう!」と考える人は昔から多かったことでしょう。

最近は、少し違う考えも出てきたように感じます。自分が亡くなった後のことより、生きている間のQOL(クオリティ・オブ・ライフ、人生の質)を上げたいと思う人が増えているのです。

がんばってきたのだから「今を楽しみたい」「今を快適に過ごしたい」、そして「周りの人に大切にされたい」とQOLについて考えるのは当然のことです。資産を形式的に遺(のこ)すより、自分の人生とそこに前向きに関わってくれる人に有意義に使いたいと思うのは、ある意味で健全と言えるでしょう。

ただ、生きている間のQOLを優先にしたばかりに、自分が亡くなった後のことまで十分に考えていたのだろうか、と思われるケースもときには起こりうるのです。

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83歳の平山すえさん(仮名)が、次女の僚子さん(仮名)と事務所に来られたときのことです。

「母は『遺言書を書きたい』と言っているんです。かわいそうなんです。だから助けてあげてください」

僚子さんは、悲痛な面持ちで前のめりにしゃべります。

すえさんは、長年ご主人と定食屋を営み、資産を夫婦で築いてきました。朝から晩まで、それこそ出産直前まで働き、子どもが生まれたあとも背中におぶって働いてきました。人を雇うと、それだけお金も出ていきます。夫婦でがんばれば、自分たちの資産はどんどん増えていきます。中学を卒業して働き出した2人には、3人の子どもたちを大学に通わせたい一念もあったのでしょう。まさに「身を粉にして」がんばってきたのです。

おかげで、貸しビルを3棟も所有することができました。すえさん夫婦はぜいたくもせず、旅行にも行かず、着る物も割烹着の下はジャブジャブ洗えるシャツが数枚あればいいといった質素な暮らしを続けてきました。目の前に座っているすえさんは、どこにでもいる普通のおばあちゃん。言われなければ、3棟の貸しビルオーナーである資産家だとは気づかないかもしれません。

娘の僚子さんが続けます。

「これから旅行でも楽しもうというときに、父が心筋梗塞で急に亡くなってしまって。お店を閉めたら、母はひとりぼっちで。弟が『俺は長男だから』と家に引きとったのですが、あまりにもひどい仕打ちだったらしくて、今は姉を含めた子どもたち3人で母を4カ月ずつそれぞれの家で面倒見ています。そんな生活がもう2年も続いていて。それでも母は、私がいちばん優しいって。ほかの2人から受けた仕打ちを教えてくれるのですが、それはそれはひどくって」

僚子さんはいかに弟や姉が母親をないがしろにしてきたかを、涙ながらに訴えます。すえさんは、ただじっと黙って座っていました。

「私にこんなにお世話をしてもらっているから、『全部の遺産を僚子に』って言ってくれるんです。それなら遺言書をつくってということになって。本当に姉も弟も、母を引き取っている間も放置。遺産目当てで、ただ母が死ぬのを待っているかのようです。ひどいんですよ……」

「本当に全部僚子さんに、で良いんですか?」

私の問いに、すえさんは首を縦に振ります。そうは言っても、残りの2人のお子さんには遺留分があります。遺留分とは、遺言でも奪えない「一定範囲の相続人に認められる最低限度の遺産取得割合」であり、そこを噛み砕いて説明しても、すえさんは「遺産はすべて僚子に」としか言いません。

僚子さんは、姉と弟に対して怒りがふつふつと湧いてくるのでしょう。強い口調でまくし立てます。

「姉は結婚のときに、両親に家まで建ててもらっています。姉の娘の結婚のときも、たくさんのお支度に母がお金を出したんです。弟はずっと両親にお金を無心してきて、車やらお小遣いやら、いくら渡したかを母は記録しています。あの2人は今まで遺留分以上のお金をもらっていますから、何も言わせません。私はあの2人に怒っていますし、もし文句を言ってきたらどこまでも闘いますから! 母の思いどおりの遺言書をつくってください!」

何度尋ねても、すえさんは「僚子の言うとおりに」としか言いません。

そうして何回かのやりとりを経て、公証役場での調印の日がきました。公証人もすえさんに、遺留分のことを何度も確認しました。それでも「このとおりに」という強い意思は変わりません。2人にこれまで支払ってきた件を遺言書に盛り込みながら、結局僚子さんがビル3棟を取得する内容となりました。

すえさんの意思の強さもさることながら、私が驚いたのは、公証役場で緊張もなく淡々とされていたことです。

公正証書遺言作成の際には、緊張する方が少なくありません。公証役場は、普段立ち入ることがない場所だからでしょう。そのため公証人から何か尋ねられても、うまく答えられなかったり、オドオドしてしまったりしまいがちです。できるだけ優しい公証人の先生を私も選ぶのですが、それでも緊張のあまり時間がかかることはよくあります。ところがすえさんは、緊張する様子もなく、スムーズに終わりました。

私も公証人の先生も、すえさんは本当に2人のお子さんで嫌な思いをしたのだな……そう思い、遺留分のことはあるにしろ、強い思いを形にできてホッとした案件でした。

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それから2年ほど経ったでしょうか。

僚子さんから電話がありました。すえさんが施設で亡くなられたとのこと。弟さんが引き取った際に、勝手に施設に入所させてしまったと主張します。なかなか面会もさせてもらえず、死に目にも会えなかったようでした。僚子さんが言っていたように、最後までひどい弟さんだったのだな……そう思っていたら、私は次の言葉に耳を疑いました。

なんと遺言書が、自筆証書、公正証書合わせて13通も出てきたとのこと! それなら公正証書遺言作成の際に緊張もせず慣れていて当然です。

3人の子どもたちの家に行くたびに、すえさんはいかにほかの2人につらく当たられてきたかを伝え、「頼れるのはあなただけ」と言っていたようです。3人のそれぞれに「かわいそう」と思ってもらうことが、自分を大切にしてもらう術だったのかもしれません。

つまり、遺言書について「このとおりに」と伝えていたのは、僚子さんだけではなかったのです。子どもたちの一人ひとりに大事にしてもらうために、遺言書をつくり続ける。「あの子に強制されたからつくったけど、本心は違う」と、次々に新しいものをつくり直したのでしょう。すえさんの子どもたち、要するに3人のきょうだいたちの仲がよければ、こうした事態は起こらなかったかもしれません

最後は施設に入所してからの、手書きの遺言書でした。遺言書は基本的には最新の日付のものが有効になるので、約2年前に「全部の遺産を僚子に」と記された遺言書よりも優先されることになります。ただ、最新の遺言書は認知症も出てきたころに書かれたものなので、自身の意思が反映されたものではなく、手本をただ書き写しただけかもしれません。結局、きょうだい間で遺言の効力について揉め、裁判まで至り何年間も争うことになったのでした。

ただ自分を大切にしてもらうために、13通も遺言書をつくったすえさん。それが子どもたちの機嫌をとり、愛情を確かめるためであり、自身のQOLを上げる手段だけだったなら、あまりに悲しすぎる話です。驚きとともに、心から切なくなってしまう案件でした。

(記事は2024年9月1日現在の情報に基づいています。質問は司法書士の実際の体験に基づいた創作です)

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