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下を向く龍に刻まれた徳川家のDNA 400年間栄える秘訣は【徳川宗家19代当主・徳川家広さんと語る(中)】
2023年1月、江戸幕府初代将軍・徳川家康から続く徳川宗家の新当主への代替わりの儀式「継宗の儀」が増上寺(東京都港区)で執り行われ、約60年間当主を務めた18代恒孝(つねなり)さんに代わって長男の家広さんが19代当主に就任しました。三菱UFJ信託銀行MUFG相続研究所長の入江誠さんによる、徳川さんへのインタビュー2回目のテーマは「初代が興した家を受け継ぎ、創業家が永続的に発展していくためには?」です。三菱UFJ銀行MUFGファミリービジネス総合研究所・主任研究員の松平和大さんとともに、そのヒントを聞きました。
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歴代で一番幸せな当主とは?
松平(以下、敬称略):私はファミリービジネスやその創業家の方々からお話を伺う機会がこれまでに多くありました。創業家としての理念は企業の経営方針に大きな影響を与えます。先祖の生き方や執行した政策、そしてその功績も、言わば理念の体現と言えますよね。徳川家の先祖から学んだ理念や考え方で「これは」と思うものや、ご自身の生き方に影響を与えた歴代の当主はいますか。
徳川:刊行されている一般向けの書籍や学術書を通して歴代の将軍、あるいは16代家達(いえさと)、17代家正、そして先代の父を見ていますと、性格が似ている部分があるように感じます。窮屈で堅苦しいのは嫌いで、好奇心旺盛で、ユーモアセンスもあったのではないかと。
家康公のような死に物狂いの生き方は大変ですし、また歴代将軍のように全てお膳立てされて極端に不自由な状況もつらい。皆それぞれのつらさがあったので、ものすごい暴君が出てこないわけですね。我慢をして、周りの言うことを聞いて、少しずつゆっくりと自己主張していく。それは今の日本人の皆さんの生き方に重なっていると思いました。その意味では、歴代で私が一番楽に生きていられる気がしますし、そういう意味で最も“幸せ”だと思います。
自分で仕事をして、自力で色々作り上げていくということでは、おそらく父が歴代で一番“幸せ”なのではないかと思います。サラリーマンだった父は日本郵船でニューヨークなどに赴任し、帰国後は副社長の仕事をこなしつつ、「国に認められる公益財団法人にしたい」と自分でハードルを高く設定してしまったような中で一生懸命に準備をし、徳川記念財団を設立させましたから。
今の憲法(日本国憲法)を曾祖父(※17代家正氏)が最後の貴族院議長として帝国議会で成立させました。曾祖父は公爵家に生まれ、当時の感覚は将軍家がそのまま続いている感じだったそうです。巨大な屋敷の中で現金も持たせてもらえず、どこに行くにも大名行列の状態。そのような人物ですが、日本国憲法の「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という法の下の平等という文言に賛成しているわけです。平等は尊く、また幸せであると強く感じています。
※現当主の19代徳川家広さんは、父・18代恒孝さんが17代徳川家正氏の養子であるため養親子関係を通じて家正氏の孫にあたるものの、恒孝さんの母(松平豊子氏)は家正氏の娘であるため、血縁関係からみると家正氏の曽孫(ひ孫)となる。
徳川家や江戸時代にまつわる誤解を解く
松平:歴代当主が大切にしてきた考え方を踏まえ、家広さんが徳川宗家の当主として大切にしたい、また受け継いでいきたい理念や思いはありますでしょうか。
徳川:徳川家や江戸時代に関する誤解を解いていきたいという思いがありますね。例えば、終戦後に哲学者の和辻哲郎は、「太平洋戦争の敗北を招いたのは、鎖国によって科学的精神が日本人から奪われたためだ」とする『鎖国―日本の悲劇』を書き、ベストセラーになったほどですから。
他にも、江戸時代と言えば「農民一揆(百姓一揆)ばかり起こっていた」というイメージを持たれる方も多いですが、本当にそれだけだったら260年以上も続かなかったと思います。逆に、「理想的な循環型社会でパラダイスだ」というわけでもありません。
江戸時代と徳川の政治を誰にでも理解できる形として説明をしていくことで、私の後の人たちが都度、聞かれて答えるという、面倒な思いをしないで済むようにしたいですね。
入江:「鎖国」という言葉を確かに我々も学校で習いましたが、貿易もしていましたし、ある程度管理下にはあるものの、外に対して閉ざされていたのではなく開かれてはいたのですよね。徳川宗家では特に明治以降、16代家達氏がイギリス留学を経て日本でのオリンピック開催に向けて尽力され、17代家正氏は外交官として公使や大使などを歴任されました。
18代であるお父様は先ほどおっしゃったとおりニューヨークで勤務された経験があり、家広さんご自身も国連職員として働かれていますね。 “国際的”というイメージがありますが、それは自然の流れで受け継いだものだったのでしょうか。
徳川:江戸幕府を開いた段階で、家康公は武士に漢文教育を行い始めます。これは現代の日本で言うところの、社内公用語を英語にする流れと同じことなのです。つまり、グローバルスタンダードである漢文の読み書きができるようになることで、中国の一流の人たちとコミュニケーションが取れるようになるということ。それまで外交には禅僧や公家が携わっていたところ、武士がきちんと外交や貿易交渉できるようになったという意味では、最初から国際派なのです。ペリー来航のときも、アメリカとの交渉は漢文の筆談で対応できましたからね。
明治以降、かえって強まった一族の絆
入江:徳川宗家では戦前、結局は幻となってしまった東京オリンピック開催のために、千駄ヶ谷の土地と建物を東京府(当時)に譲られたそうですね。いまのお話からも「社会全体」や「公共のために」という思いが非常にお強いのではないかと思いました。少し広げてご一族のお話も伺っていきたいと思いますが、徳川宗家以外のご一族の皆様も公益、公共的なご活動をされていらっしゃるのでしょうか。
徳川:徳川家で受け継いできた文化財を自力で守り、公開・研究していくことは公益にかなったことだと思っています。「全て国や公的機関に寄付してしまう」という考え方もありますが、一つの家に1セットであったものを同じ家の人たちでずっと守っていくのと、公共施設に収蔵されたものの一部として扱われていくのとでは、管理・維持・研究などにかける熱意が変わってくる。もちろん、日本には素晴らしい公共の博物館もたくさんありますが、一方で、予算面はその時々の情勢で変わってしまうというリスクもありますからね。
空襲などで焼失してしまったというお家も結構あるので、これまで受け継いできたものを守るというだけでも、十分に公益に資するところがあると思っています。これは徳川一族に限らず、おおよその大名家においても共通することですね。
松平:宗家のみならず、徳川ご一族として「公益・公共のため」という考えをご一族で共有されていると感じました。
現代において、御三家・御三卿・慶喜家をはじめとする徳川各家、並びに松平各家とはどのような関係性なのでしょうか。また、初代から築いてきた一族永続のシステムは現在も機能しているのか、あるいは形を変えて残っているのでしょうか。
徳川:江戸時代には皆さん側室がいて、そうするとどんどん血縁が離れていきますよね。たまに養子でまた密になることもありますが、どちらかというと遠心力が働いていた。明治維新以降は、西洋の一夫一婦制に倣わなければいけないということで、しかもそろって主に東京に集められた。爵位に応じた婚姻関係を作っていくうちに、明治以降に皆、血縁が近くなっていったのです。江戸時代の感覚でいくと、全国に散らばっていたお殿様たちが、明治以降の変化のお陰で「はとこ」くらいの一つの大きなファミリーになっていったのは興味深い動向だと思います。
今でも徳川や松平各家とは、年に1回は集まるようにしています。名称があって「葵交会(きこうかい)」と呼んでいます。法人のような形での“家”を実態として維持しているところの方が少ないと思いますが、皆さん苦労は一緒。助けられるところは助け合いながら、距離を保ってほしいところには口を出さないような、ちょうどいいバランスで関係を維持できていると思います。
徳川家が忘れなかった戒めとは
松平:核家族化が進んでいる現在もご親族と定期的に集まっているとは素晴らしいですね。企業や創業家ご一族の永続を考えたとき、世代を経て親族関係者が増えても、親族間のコミュニケーションを絶やさないことはファミリービジネス研究、ことファミリーガバナンスの観点で、極めて重要だと考えられています。
徳川宗家の場合、初代家康公から今日まで続く長続きの秘訣はどのように考えていますか。
徳川:織田信長が出てくるまでは、日本の支配者は基本的に天皇家の人間でした。源氏は天皇家から枝分かれしていますからね。つまり、大化の改新からずっと同じ遺伝子プールで続いてきたのが、信長や秀吉が実力で源氏の名門大名を抑えていき、全く新しい時代になった。そしてそのまま豊臣王朝になるかと思いきや、中国に攻めていって崩壊してしまう。
そこで出てきたのが徳川家康でした。足利氏のような源氏の名門というわけではなく、“太閤秀吉”と比べて知名度が勝っているわけでもない。人口の多くは西日本に偏っていた時代に、関東平野は注目されていなかったからこそ、そこにたくさん領地を得ることができたのですが。そういう中で、新しい幕府を無我夢中で作っていかなくてはなりませんでした。
家康公は1603年に征夷大将軍になりますが、具体的な策は何も固まっていなかったようです。将軍の務めをしながら、新しい制度を考えて固めることは難しい。60歳過ぎという年齢でもありましたし、日々の実務は息子の秀忠公に任せ、温暖な駿府でこれからの日本の国の形を構想して制度にまとめていく作業に当たりました。1615年に禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)と武家諸法度を発布し、お寺や神社と協約を締結していくという大事な仕事の準備を駿府で行っていたわけです。
「長続きの秘訣は」と問われれば、それはなるべく多くを人にあげてしまった、そして欲をかかなかったことだと思いますよ。それは信長や秀吉を見て「これはあかん」と思ったのでしょう。
松平:身の丈を踏まえて謙虚に、また利他を重んじるという精神が、ご家族の永続の秘訣ということですね。
家康公の謙虚さを尊ぶ考えの象徴として、上野東照宮(東京都台東区)の下を向いている「昇り龍(※)」は有名ですね。
徳川:これは何百年と言われ続けていますが、今でも生きた教訓ですよね。「天下を取ったぞ」という気持ちになるのはいかに簡単で、もろいものか。謙虚さを失った瞬間に、人は坂道を転がり始めるということなのだと思います。
※上野東照宮の唐門 (3代将軍・徳川家光により1651年造営、国指定重要文化財)には左甚五郎(ひだりじんごろう)作と言われる昇り龍・降り龍の彫刻があり、偉大な人ほど頭を垂れて目下の者を気にかけるということから、頭が下を向いている方が「昇り龍」と呼ばれている。謙虚な人だけが真の偉業を成し遂げることができる、という徳川家の戒めを表す。
●徳川家広さんのプロフィール
とくがわ・いえひろ/作家・翻訳家。1965年、東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、米ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得。国連食糧農業機関FAOローマ本部とハノイ支部で勤務後、米コロンビア大学大学院で政治学修士号を取得。2000年末に帰国後は政治経済評論家としても活動。著書に『自分を守る経済学』(ちくま新書)、『マルクスを読みなおす』(筑摩選書)ほか訳書多数。2021年6月から公益財団法人徳川記念財団理事長。2023年1月、徳川宗家19代当主に。
●MUFG相続研究所のプロフィール
「人生100年時代」の到来を前に、高齢社会における資産管理や次世代への円滑な資産承継といった社会課題の解決を目指し、三菱UFJ信託銀行が2020年に設立。中立的な立場で資産管理・資産承継に関する調査・研究・情報発信や政策提言をするほか、産官学で連携して課題解決に取り組む。
●MUFGファミリービジネス総合研究所のプロフィール
ファミリービジネスと創業家の永続的な発展に寄与することで社会課題の解決に貢献することを目的に、三菱UFJ銀行が2024年に設立。神戸大学大学院経営学研究科との産学連携協定に基づく研究プラットフォームを活かし、ファミリービジネス研究に関する知見・情報が集まる場を形成、全国のファミリービジネス創業家やその関係者とアカデミアとのネットワーク拡大に寄与するなど、産学連携活動を通じて社会課題解決に取り組む。
(記事は2024年8月1日現在の情報に基づいています。)
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