『母の遺骨を食べたい』作者の相続(下) 倹約家だった母の遺産「物に変えたくない」
母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』の作者、宮川サトシさんインタビュー後編です。母、明子さんが亡くなった1年後、宮川さんは、母が内緒で遺してくれていたものの存在を知ります。
母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』の作者、宮川サトシさんインタビュー後編です。母、明子さんが亡くなった1年後、宮川さんは、母が内緒で遺してくれていたものの存在を知ります。
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――お母様が宮川さんに遺してくれたものとはいったい何だったのでしょうか?
僕は大学生のときに白血病になって、骨髄移植の手術を受けたんです。移植前に行う抗がん剤や放射線照射によって精子をつくれなくなるんですね。そのとき、母が冷結精子保存を提案してきました。当時の僕は子どもなんて嫌いだし、どうでもいいと思っていたのですが、「これだけはやっとかなあかん!」と、いつも笑ってた母が激しく僕を叱りました。
くだんの電話は、冷結精子を保存していた病院から更新の通知だったんです。それまでは母が保存料を振り込んでくれていましたが、連絡先が妻に代わり、その継続の意思確認の内容でした。そこで妻に聞いてみたら、母が亡くなる前に、僕に気を使わせたくないから、その時がくるまで内緒にしてほしいと、保存料の件と大量の体外受精の本やその関連記事の新聞のスクラップを託したのそうです。
――お母さんからのかけがえのない贈りものですね。
あのとき激しく僕を叱ったのは、子どもを作れ!と怒鳴ったのではなくて、僕に子どもも作ることができる、という選択肢を残してくれたのだと思います。母は僕が女の子だったら「ハナエ」と名付けるつもりだったそうです。
いつか、僕に子供が生まれたらハナエという名前にしろとも言ってました。どうも、デザイナーの森英恵さんが大好きだったみたいです(笑)。冷結精子の電話を受けた後、僕はまだ見ぬ自分の子供に向けて、遺書ともとれる手紙を書きました。「ハナエへ」と。
心の中のすべてを吐き出すように書きました。生まれた子供は女の子だったので、娘にはハナエと名付けました。昔の僕はいつ死んでもいいや!と思っていましたが、今は妻と娘と一緒にいることがとても楽しい。生きているうちに表現したいことは全部したいと思えるようになりました。
――お母様の死後、ご家族の関係性の変化はありましたか?
うちの家族はそんなに仲がいいという感じではなかったんです。一緒にいても特に会話するということもなかった。でも、母という太陽がなくなって日照時間が減ったせいか、ガザガザとバランスが崩れました。
今思うと、みんな母に頼ってたんですね。よくけんかした兄弟だけど、それもなくなってちゃんと会話をするようになった。冷たい人間だと思っていた父がウエットになった。ぼんくらだった僕も東京に出て漫画を描くようになった。家族が再編成されたように思います。
それは母が亡くなることが悲しいという気持ちを共有できたからだと思います。よく親の死後、相続で兄弟がもめたりしますけど、たとえば親が病気になったとき、「この人がいなくなれば悲しいよね」という気持ちを皆が共有できれば、お金のことなんかでもめないと思うんです。
――お母様の相続についてご家族の間でトラブルはありましたか?
母のカルピスはいつも薄くてね。ジュースを飲んだ後なんか、そこに水を入れてグルグルかき回してすすいで全部飲み干すくらい倹約家だった母なので、ある程度の遺産はありました。遺言はなかったんですけど、「言わなくてもわかるよね」という暗黙の母のメッセージを受け取り、兄弟で平等に分けました。でも、使えないです。それを物質に変えたくない。
物に変えたとたんに虚しくなるような気がするんです。母の遺産で買った車に乗ってる自分を見たくない。なんかそんな自分がかっこ悪いと思うんです。預金通帳にある数字だけがお守り、保険みたいな感覚ですかね。もっともその保険があったから、仕事をやめて漫画家にチャレンジできた部分もあるので、本当にありがたいと思っています。
――お母様の死によって宮川さんご自身は変わりましたか?
やっと本気になれましたね(笑)。僕はもともと悔し涙や嬉し涙を流すほど、なにかに打ち込んだことがなかったんです。勉強も受験もほどほど、運動会も別に3位くらいでもいいや、と。何に対してものほほんと無頓着。それが母の死に直面し、人を大事にできるということがわかったんです。
母をこれほど大事にできたんだから、他のことも大事にできるという自信が生まれました。凡庸な言葉ですが、人を愛する愛し方がわかったという感じかな。人に負けたくない、勝ちたいという気持ちも生まれてきた。「人気漫画家炎上しろ!」なんて思ったり(笑)。子ども嫌いだったのに、今は娘のことがものすごく愛おしいと思えます。親の死は、子どもの人生を動かす大きな力があると思います。
――現在、お母様のことを思い出して悲しくなることはありますか?
もちろん思い出すことはありますが、以前のように落ち込むことはなくなりました。それは、母ととことん向き合って、母の死をいろんな角度からみて、すべて食べつくしたという気持ちがあるからです。たとえば、家に上がるときは靴を揃えなさいとか、仕事で世話になる人には菓子折りを持っていけといったような、日々の教えは、お金以上のものを残してくれたと思います。
母の死によって発見した新しい自分、そういった母から受け継いだエネルギーがすべて変換されて、全部自分にインストールされたと感じています。だから、もう、母の死に関して困ることは何もなくなりました。
○プロフィール
宮川サトシ
1978年生まれ、岐阜県出身。2013年『東京百鬼夜行』でデビュー。最愛の人を喪った哀しみとそこからの再生を描いた自伝エッセイ『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』は、多くの共感を得て19年映画化された。作品には、原作者をつとめるSFギャグ『宇宙戦艦ティラミス』のほか、『情熱大陸への執拗な情熱』『そのオムツ、俺が換えます』など。
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