中村雅俊さんが語る震災10年と支援活動「何かしたい気持ちをその時々に合った形で」
俳優・歌手の中村雅俊さんは、宮城県の海沿いの町、女川町の出身です。故郷は2011年の東日本大震災で大きな被害を受けました。震災後から支援に動き、そのときどきに必要な形を模索しながら、10年間、故郷に思いを寄せてきました。被災地のいまについて、支援活動の中で感じた寄付やボランティア、遺贈寄付について語ってもらいました。
俳優・歌手の中村雅俊さんは、宮城県の海沿いの町、女川町の出身です。故郷は2011年の東日本大震災で大きな被害を受けました。震災後から支援に動き、そのときどきに必要な形を模索しながら、10年間、故郷に思いを寄せてきました。被災地のいまについて、支援活動の中で感じた寄付やボランティア、遺贈寄付について語ってもらいました。
目次
ーー今年は東日本大震災から10年という年です。中村さんの故郷、宮城県女川町も大きな被害に遭われました。
震災後、女川町に帰ることができたのは1カ月あまりが過ぎたころでした。目の前はがれきだらけで、俺が知っている故郷の風景は跡形もなかった。言葉を失いました。しかし、被災者の皆さんは、日々の暮らしを、そして、ついさっきまで一緒にいた家族や大切な人を突然奪われた。その悲しみは、故郷を離れていた俺には想像もつかないほど深く、壮絶なものだったと思います。
直後は、とりあえず集められるだけの義援金や物資を届けるのが精いっぱい。少し時間が経ってからは避難所などで歌う機会もありましたが、正直「歌なんて歌っている場合なのか。そもそも受け入れてもらえるのだろうか」と悩みました。でも、被災者の皆さんはとても喜んでくれた。特に、俺が20歳ごろに作った「私の町」という曲は、聴きながら涙する人も。「トンネルを抜けると 港が見えるのさ 短いホームに 汽車は停まるだろ……」と、ただただ女川の景色を歌っただけの曲。震災で失われた故郷が皆さんの中によみがえり、心の中に染み入っている様子が歌っている俺にも伝わってきました。「歌の力」を感じました。
正直、それまでは故郷のために何かしようという気持ちはあまり強くは持っていませんでした。でも、がれきだらけの町、そして、悲しみを抱えながら前を向こうとする町の人々の姿に、「俺は女川の人間だ。この町は俺たちが守る!」という思いに突き動かされた。故郷への意識が変わりました。自分ができることはなんでもやろうと動き始めたのです。
ーー具体的にはどのような活動をされましたか。
義援金を集め、トレーラーハウスを女川町に寄贈しました。「ふれあいオレンジハウス」と呼ばれ、地元の皆さんに活用していただいています。同じ宮城県内の東松島の小学校に新しい校歌も作曲しました。
ーーこの10年、被災地や被災者の方々を見続けてこられて、その変化をどのように感じていらっしゃいますか。
新しく建物ができ、インフラも整備され、復興は確実に進んでいます。しかし、メディアなどで取り上げられるような象徴的な場所はどんどんきれいになるのに、人口が少ない地域は手付かずだったりする。復興の格差が生じていると感じます。
仮設住宅はほとんどなくなり、被災者の皆さんは新たに家を建てたり、共同住宅に入居したり、日常生活は取り戻したように見えます。しかしその分、「孤独」が生まれた。高齢者の孤独死も起きていると聞き、心が痛みます。また、突然家族や大切な人を失った悲しみはそう簡単に癒やされるものではありません。これからは、被災者の方々のメンタルケアが課題。以前のように「ああ、幸せだな」と心の底から思うことができて初めて本当の意味での復興と言えるのだと思います。
大事なのは人と人との「ふれあい」じゃないか、と。俺にできることは何かと考え、コロナ禍の前は年に数回、大学時代の仲間や、ドラマ「われら青春!」の生徒役、スタッフらと女川を訪ねました。地元の人とふれあいながら食べたり買い物したりを楽しみました。その中で、被災者の皆さんに笑顔が戻ってきていると感じることもありました。支援はその時々に合う形でやっていけばいい。被災地に足を運び続ける中で、そう思えるようになっていきました。
ーー多くのヒット曲があり、ご自身のライブ活動に加え、チャリティーコンサートにも数多く参加されてきました。
震災後は、自分でチャリティーライブをしたり、国内外のイベントに呼んでいただいたりといった機会が増えました。
実は東日本大震災直後の4月1日、俺は香港にいました。俳優のジャッキー・チェンさんがアジア各国のアーティストを集め、被災地支援のためのチャリティーコンサートを開催したのです。かつて香港でドラマ「俺たちの旅」や「ゆうひが丘の総理大臣」が放送されていたこともあり、ジャッキーさんも見てくれていたそうで声をかけていただきました。チャリティーコンサートの様子は香港の全てのテレビ局、ラジオ局で放送され、多くの寄付金が集まりました。
これまでも国内外の多くのアーティストがチャリティーコンサートをしてきました。音楽とチャリティーってすごく親和性が高い。観客の皆さんも、好きなアーティストのライブを楽しみ、それがチャリティーにつながるというのは参加しやすいと思います。自分に関心があること、好きなこと、応援したいことを通じて寄付ができる。チャリティーのハードルが下がるんじゃないかなと思いますね。
ーー寄付やボランティア活動はどのように広まっていくといいとお考えですか。
日本ではここ数年も大きな地震や豪雨災害が起きていて、「被災した人たちのために、被災地のために何かしたい」という人は多いはず。その気持ちを具体的な行動や形にしたものが、寄付だったりボランティア活動だったりするのだと思います。被災地支援だけでなく、紛争や飢餓で苦しむ子どもたちを助けたい、環境を守りたいなど、心が動かされる問題に対してアクションすればいいのではないでしょうか。
「寄付」というと大きなお金が必要なんじゃないかと考えがちですが、気持ちを形にすると思えば金額の大小は関係ない。そういう意味では、クラウドファンディングの盛り上がりはすごくいいなぁと。応援したい気持ちを気軽に、手軽に、簡単に行動に移せる仕組みが広まることにも期待しています。
ーー寄付の中には、死後に資産を寄付する「遺贈寄付」があります。どうとらえていますか。
気持ちを形にするすべの一つとして、とてもいい取り組みだと思います。これは生前の寄付も同じですが、「応援したい、だから寄付したい」と思える団体や組織があるかどうかも大切だと思っていて。欧米に比べると日本は寄付や遺贈の文化が浸透していないと言われていますが、贈る側はもちろん、贈られる側の成熟も必要だと考えます。そして、贈る側は日本や世界でどんなことが問題になっているかをメディアなどを通じて知ることも大事。大切な資産を託すのですから、知って理解し、納得して応援したいですよね。まずは知ることがアクションのきっかけになるのではと思っています。
ーー被災地支援も含め、これからどんな活動を続けていきたいですか?
コロナ禍の影響で、40年以上毎年続けてきたコンサートツアーが昨年は中止になりました。しかし今年、オーケストラと競演するコンサートを4カ所で開催できることになりました。「ふれあい」や「恋人も濡れる街角」などのヒット曲から最近の曲、隠れた名曲まで、フルオーケストラの演奏をバックに歌います。そうそう、「俺たちの旅」コーナーもあるんですよ。
コンサートでいつも感じるのは、歌を通じて聴いてくれるみなさんと通じ合えるということ。俺が一方的に歌うというよりも、気持ちや思いを伝え合い、まるで会話しているかのような感覚がある。これは、東日本大震災の後、被災地で歌ったときにも強く感じ、「歌の力」を実感しました。そして、被災地の人たちが俺の歌に励まされる様子に、俺自身が励まされ、勇気付けられ、大きな自信になりました。
これからも歌の力を信じ、歌い続けていきたいですね。だれかを笑顔にできると信じて。
(聞き手・中津海麻子、撮影・篠田英美)
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