目次

  1. 1. 後押しと手渡されたバトンを胸に奮起した20代
  2. 2. 社会課題とエンターテインメントは切り分けない
  3. 3. 尻込みせず「できることをやろう!」の精神で
  4. 4. ファンタジーを獲得して進化してきたのが人類
  5. 5. 演劇の「相手の立場で考える視点」を多くの人に
  6. 6. 遺贈寄付は「幸せを感じられる景色」を思い描ける

――幼い頃からエンターテインメントは身近にあったのでしょうか。

母に連れられて、歌舞伎やレビューといった舞台をたくさん見ていましたね。そして10代後半で1年ほど引きこもっている間に、自室でたくさんレコードを聴きました。その美しさを視覚化してみたいと思うようになって、演出に興味を持ったんです。進学した大学では演劇を専攻しました。

――演出家デビュー以前は出演者として活動されていました。紆余曲折の道を支えてくれた存在は、どなたでしょう。

まずは大学の恩師です。演劇を学ぶうちに自分の道が狭まっていく気がして、通い続けることに迷ってしまって。内緒で受けたダンサーオーディションに合格したタイミングで両親と大学へ出向き、「ここを出て、荒波に揉まれてみなさい」と背中を押してもらいました。もう一人は、歌劇団で活動していたこともある母。僕が21歳の頃、2カ月にわたって出演する舞台が初日を迎える朝に突然亡くなりました。頭は混乱しているのに、やればやるほど舞台にエネルギーを込めていける不思議な感覚がありましたね。重いバトンを受け取ったような気持ちで、千秋楽後に日を空けず渡米。初めてのアメリカでブロードウェイ舞台を観劇し、そこから日本でバイトをしては本場のレッスンを受講しにいく日々が始まりました。演出家としての初公演はその数年後、29歳です。

――激賞された初演出公演から100作以上を手がけ、現在は社会課題にも精力的に取り組まれています。伝統芸能の継承や犬猫の殺処分対策、若手の人材発掘・育成など内容も幅広いですね。

演出家の目線として、客観的に物事を見るのが好きなんです。チャプリンは「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言っていますよね。日本にも世阿弥の「離見の見」という考え方がある。エンターテインメントをこえて人類史に思いをはせれば、人と社会は今も進化の過程にあります。価値観の違いや差別もまだ残っているけれど、演劇はそれを「仕方ないね」で終わらせません。悪役の背景に目を凝らしますし、人間が人間を探っていくんですよ。その延長で、僕は社会問題や人間の在りかたをエンターテインメントと分けずに考えたいんです。

――プロジェクトを引き受けたり呼びかけたりする基準はどんなものですか。

規模を問わず、社会の中に飛び込んで聞いた話に心が動くかどうかです。仕事柄、携わった物事がパッと花開くようなスイッチを押してみたいんですね。例えば、沖縄の自然保護を目的とするコンサート。ただ「環境破壊はよくない!」と叫んでも、誰も動きません。あの催しは歌手や民謡奏者と客席が一体になって、自然のすばらしさや「自然がそばにあったからこそ、歌や心が共有されてきた」と再認識する場になりました。自分の中でふくらんだ思いを「皆さんはどう感じますか?」と投げかけたいし、一緒に考えたいというのが僕のスタンスです。

――海外での生活も経験されましたが、一般人の慈善活動などへの参加意識は日本と違うのでしょうか。

印象深いのは9.11ですね。発生時は舞台のためニューヨークにいましたが、滞在先の窓に倒壊したビルの粉塵がこびりつくほどで、衝撃を受けました。しかし、まだ白煙が辺りを覆いつくす中でも現場近くでは支援の相談をする声が聞こえてくるんです。なんと言っても行動が早いですね。デスクを表に出し、救急隊や周辺住民が必要とするものを連日差し出していました。僕も買い出しなどに協力しながら、その数日を過ごしました。

――みんなが等身大の「これならできる」ということに取り組んでいたと。

そう。あの街はビジネスではすごく厳しいところですが、そんな緊急事態に陥った時に国も人種もこえて協力し合えるんです。翌年の大停電の時も、車が大渋滞を起こす中で警察官でもない一般人がすぐに信号の下で交通整理をしていました。日本でももちろん、東日本大震災の慰問などで地域の助け合いを数多く目にしました。ただ、どちらかというと他人の目を気にしてしまうところがあるのかな。ボランティアの受け入れ体制のように「すぐには」という制約もあるかもしれません。けれども、そういうこと以外にも誰もが尻込みせず「できることをやろう!」となればいいですよね。

――ご自身の引きこもりや慰問などの経験から、エンターテインメントの魅力をどう捉えますか。

「目に映るものが全てではなく、心という目に見えない世界がある」と教えてくれること。人はファンタジーを獲得したからこそ進化したと言われていますから。

――想像力、夢見る力ということですか。

そう、「こうなったらいいな」と思い描いた夢がそのうち「この世界をつくりたい」になっていきます。ミュージカルが生まれたのは、ブロードウェイで廃業したお笑い劇団やコミックバレエ団がタッグを組んだから。違うジャンルの人たちが一緒に「できることをやろう、人を喜ばせよう」と立ち上がったわけです。前向きな願いの産物の一つなんですよ。

――舞台をつくる時にも、物語とは別の心がけや願いがあるんですね。

僕はお客様の感情を操縦するような演出はしないよう努力しています。感動で人を掌握しないということです。使いかたによっては洗脳することもできてしまうのが、エンターテインメントなので。

――子どもたちを対象にした演劇の体験授業を引き受けたのは、そんな気づきを与えたいという考えからですか。引きでみることの大切さというか。

あの講義の意味は「相手の立場で考える視点を持とう」と伝えることにあったと思います。日常でも本人がSNSで記したことだけが本心で本当だとは限らないじゃないですか。だから想像しようよ、と。例えば「桃太郎の赤鬼は何を考えていたのか」「赤ずきんの母はなぜ危険な外出をさせたのか」とか。みんなで笑いながら話して楽しかったですよ。

――子どもに限らず大切にしたいことですね。

情報が多い世の中だと、相手のことを想像する時間が削られますからね。ニュース番組だって、恐ろしい音楽がBGMに使われれば、その印象にとらわれて自分で考える隙が与えられない状況になります。するといつの間にか、誰かと接してもすぐに「自分が正しくて相手が間違っている」という考えになってしまう。危険なことだと思います。

――様々な活動に参画する中、遺贈寄付を知った時の印象を教えてください。

名前で少し損をしている感じがしました(笑)。こんなに素敵なのに、お金が先立つように見えてしまうのがもったいない。僕は遺贈寄付をしたいと考えた時にまず、どこでどう使われるかを想像して幸せになりたいです。ただお金を差し出すのではなくて、子どもたちが元気にご飯を食べているとか、何か施設ができて喜んでいるとか。自分の心まで満たされ、幸せを感じられることを選びたいですよね。

――演出は人と人をつなぐ仕事だと言われますが、「誰かのために」という思考は自然に身についたものですか。

演出家への道がなかなか拓けず悩んでいた20代の頃、知人に何をしたいのかと聞かれました。だから演出家になりたいんだよと答えたけれど、「そうじゃなくて、演出家をすることで人に何をしたいんだ?」と。その時、僕は演出家という肩書きを手に入れて部屋で一人喜んでいたいわけじゃない、誰かに感動したり喜んだりしてもらうことで初めて幸せになれるし自分に価値を感じられるんだと認識しました。ずっとそんな気持ちでいます。

――人生を豊かにするには、幸せに自覚的かつ積極的であることが大切でしょうか。

僕は母の死をきっかけに「人生二度なし、一瞬を無駄にせず充実させたい」と思いました。それには仕事に限らず、色々な幸せを自覚して味わうことが大切で。例えば、夕日を見たら立ち止まって色合いが変わっていくまで見ていたい。自分の感性に響くものを忘れないでいることが大事ですよね。「人の笑顔が見たい」なんかもそう。皆さんはどうでしょうか。ぜひ自分に問いかけて、幸せな想像力を働かせてほしいです。それが人生にとって大事なことであり、遺贈を考える第一歩でもあると思います。

(聞き手・田中美穂、撮影・門間新弥)

宮本亞門(みやもと・あもん)

1958年生まれ、東京都出身。ダンサーや振付師として活動したのち、87年に自作ミュージカル『アイ・ガット・マーマン』で演出家デビュー。2004年にオンブロードウェイでミュージカル『太平洋序曲』を演出。東洋人初の快挙を達成し、同作でトニー賞4部門にノミネートされる。その後もオペラやストレートプレイなどを幅広く手がけ、23年にはNHK連続テレビ小説『ブギウギ』でテレビドラマ初出演。25年は尊敬する葛飾北斎の舞台再演、26年にはミュージカル『カラテ・キッド』の世界展開を予定。19年に公表した前立腺がんに関連し、疾病啓発にも取り組む。著書に『上を向いて生きる』(幻冬舎)などがある。